「伝統のなかに、新しい発見ができないか!
自分なりに作ったら、どんなお菓子ができるのか。」
私のお菓子づくりは、伝統への挑戦から始まりました。
伝統菓子に挑戦するには、伝統を素直に受け継ぎ確実に体得します。ノウハウとして次世代に伝えられるレベルにまで達してからアレンジしていきます。
現れては消えてゆく流行菓子は他のパティシエ達に任せて、「La toradition(伝統)」を受け継ぐことこそが、私の仕事と心得ています。
それは、先代のバウムクーヘンであり、師匠の焼き菓子マドレーヌであり、シンプルなフランス菓子モンブランに表現されています。
1965年、静岡県三島市生。
1985年、あべの辻製菓技術学校を卒業。
1986年、辻グループフランス校製菓2期卒業。
世田谷区尾山台「Au Bon Vieux Temps (オーボンビュータン)」にて約4年間河田勝彦氏に師事し、
91‘再渡仏、リヨン・パリのパティスリーで働くも湾岸戦争で労働許可が下りず、93’帰国・帰郷。
昭和7年創業の「ララ洋菓子店」の三代目として事業を継承。
静岡県洋菓子協会理事、同東部会会長、「富士山洋菓子倶楽部」主宰、
2016年スイーツエージェント協会 創設、代表理事・・・・・・
製菓学校・大学短大農系ゼミ、実業高校(農・商・工)、
小中学校にて「菓子職人・パティシエとは」の職業講話。
所属団体主催で、都内有名パティシエを招いての「プロ向け技術講習会」など企画・開催。
1965年(昭和40年)、静岡県東部では一番古い「洋菓子専業店・ララ洋菓子店1932年創業」の長男として生まれました。高度成長期で両親・親戚・住み込み職人たちでごった返した中、父親は厳しく育てようと、階段の掃除(住居兼ケーキ工場)などを幼子にさせていました。
幼稚園年長の時、近くに住む祖父母(創業者)に賄いの食事を届ける時に車に跳ね飛ばされるという、珍事が起こります。近所でも「偉い子」とか「ララの(長男)のりちゃん」として知られていたので、直ぐに近所の方の車で病院に担ぎ込まれ一命を取り留めます。
小さい頃から、親や他人の言うことを聞かず小学校の低学年から剣道場に通わされていました。
しかも、学校よりも遥かに遠い2学区先、中学校区よりも遠い場所へ歩いて防具を担いで。
日曜日はまだ良いのですが、3~4年生で夜の稽古が増えると、高校生や大学生が心配して一緒に自宅まで自転車で送ってくれたりしました。
当然真面目に通い続ける訳もなく、理由を付けては休みがちになります。
中学校になり剣道部に入りますが、多少経験していたので、上級生に勝ったりしてまた、天狗になってしまいます。(それ以上は伸びません)高校の進路の時も、普通科へ行って大学へ行くものと自分で決めていたら、父親が「朝働いてから学校へ」と言い出す始末。
「沼津商業高校」に合格し、入学間近の4月毎朝・叩き起されることに「嫌になり」何回目かの家出!
東京でフラフラ~なぜか?青森の青函連絡船で「剃り込み坊主頭・スポーツバック」で捕まります(笑)
三島に返されひとまず高校へ入学。そこでもまた珍事が・・・。
入学して直ぐの実力テストで何も勉強していないのに「上位に入る」・・・と。
これまた天狗になる要素万点の事件。
結局、高校はラグビーと友達作りしか残りません。朝、『ベビーシュークリーム』用のカスタードクリームを20リットル位炊いて行くのですから、学校では寝ていました。(笑)
高校3年の進路を決めるとき一応ラグビー部キャプテンなので「推薦」が貰えるかと、甘い考え。
本人にまだ就職の意思はなく、すったもんだで「ケーキ職人に」それも、舐めていて「ケーキ職人なら卒業証書いらね~」と、学校に行かなくなります。(あと少しで授業もなくなる3年の秋です。)
当然、大切なラグビー部にも迷惑が掛かりました。家業(ケーキ作り)の仕事も面白くなく、家からも飛び出し友人の紹介で、住み込みの大工(型枠)もしたりして自動車免許を取らせて貰ったりします。当然のように親戚や姉が探し始め、友達から聞き出し「親方の所へ」すみません家に返してくださいと。「それなら、勉強し直せるように」「専門学校へ行かせてくれ!」と、それを条件に再び「菓子職人の道へ」序章がながすぎました。
当時、「料理天国」という、芳村真理さんや龍虎さんが出ていた番組が流行っていました。
そこで見つけた「菓子職人」で、自分の家との差「パティシエ」(当時・まだ呼び名も広まっていません)を感じ、「辻製菓技術学校」(料理学校の製菓としてまだ認可が下りる前でした)へ、入学(中学卒も、社会人も、大学卒も一緒でした)できました。
そこでは働きながら(夜)学校へ来る元社会人、新聞配達に住み込んで仕事しながら(早朝)授業に出ることを普通にしている奨学学生と自分が「虐げられていた」と言う誤解を綺麗に払拭する友人たちに出会います。ですが、まだまだ自己満足は続きます。さらに、脛を噛じってやろうと「フランス校へ」そこで素晴らしく意識の高い「後の有名シェフたち」に触発されるわけです。
まだパティシエコースは2期生で、先生達も元は調理科、フランス人MOF(最高勲章)のモーリス・ボゲェイ先生は全く怒らない。
伸び伸びとお菓子三昧、料理人の友人たちに誘われて「星付きレストラン食べ歩き三昧」とにかく、パワフルで夢を持った20・21歳の青年たち「未来の有名シェフ」と言う掛け替えの無い友人たちに出会います。
小さい女の子の憧れの職業で上位にランクされる「パティシエ」「パティシエール」という仕事。見るとやるとは大違いで、なかなか大変な作業の連続です。お客様の口に入る物なので当然ですが、細心の注意に神経をすり減らす毎日です。
ところが、辛いことばかりではありません、形のない粉、砂糖、卵などから様々な形、色、香り、そして味覚や食感を自由に創り出すことができるのですから・・・。
憧れだけで終わらせること無く、女性のセンス、感性を120%引き出す、引き出せる、最高の仕事として、一生の仕事として女性の活躍が益々期待されています。これからは、寿退社後や、たとえ産休中でも、自宅(ネット上の店舗)でお菓子を売る、売れる時代です。
作るだけではなく、売るのも大事な仕事なのです。